No.866 あらきそば

2日前福島で飲んでいるときに、公一船長から山形のそば屋情報をたくさん教えてもらった。 船長の手帳には店の評価がABCで書いてあり、それをみてぼくとさぽはニヤリ。 なんのニヤリかといえば、船長は間違いなく将来そば屋をひらくであろうビジョンがなぜだかふたりの脳裏にぴかりと光ったのでニヤリ。 手帳からサイコメトリックな強烈な何かを感じたんだろうかしら。  で、ここのところすっかりそばにはまってしまって今週からほぼ毎週そば屋巡りをしようぜと決めたぼくら、船長が2回いってその真のおいしさに気が付いたというお店にどうしても一番最初にいってみたいと思い、未踏の地「村山」へ足をのばすことに。   天童を超え、バイパスをさらにこんなに北に走ることはめったにない。 地図をたよりに西に左折、山形とは比較にならない雪深さに驚愕。 しばらく走るとそば街道なる道にはいる。 おおざっぱな地図しかないので雪かきしているおばちゃんにあらきそばがどこにあるかごぞんじかと尋ねると、おばちゃんはうんと丁寧でかわいらしい説明でぼくらを案内してくれた。 悪意の感激屋さぽのなかで村山のおばちゃんは妖精みたいなイメージになってしまった。  ほんとにかわいかった。  案内通りの場所に案内通りの「ちいちゃい看板」。 昼時なのにぼくらの他に一組しかお客がいない、とおもっていたら続々人が増えていき、あっというまにいっぱいになってしまった。 切れ目だっただけだった。 らたたらったらたらった。 メニューはなく、ただ「おかずは付けますか?」とだけ聞かれる。 食事のメニューに関しては特別に優柔不断なぼくにとってこういう店は非常にありがたい。 勝手に唯一無二の一番上手いモノをだしてくれるのだもの。  先にきた「おかず」は、真っ黒なニシンと切り干し大根。 これがめ〜ちゃ〜く〜ちゃ〜うまい!!!!!  やられた!!!!!  殺された!!!!!  笑っちゃうほど素敵なロケーション(くらい古い日本家屋におばちゃんがたが集まって切り盛りしている。そして外はまぎれもない「雪国」)と相俟って、一気にふたり、ここのファンになってしまった。  大感激でおかずをむさぼっていると、きました、板そば。  聞いていたとおり、黒く、太い、無骨このうえない田舎そば。 ぼくは最近、見栄や勘違いでなく、ほんとにそばをそのまま食べるのが美味しくて、というか「基本的に味エネルギーの強いものであるつゆ」をつけちゃうと、「ひたすら能動的に集中して探っていくことで初めて薫ってくる風味をたくさん隠したそば」の味なんて全然わからなくなっちゃうことにいまさらながら気付き、なるべくして蒸籠からの、今日の場合板からの直食いが当たり前になってしまった。 ひたすら能動的に集中して探っていくことで初めてすばしっこく走るその影をとらえることができる価値ってのが世の中にはずいぶんたくさんあって、すなわち「誰にでもわかるものでなきゃ本当にすばらしいものとはいえないよ」なんて論法は成り立たず、そんなこといってる人のいうすばらしさなんてのはGHQの洗脳枠からいっさいハミでることのないあまりにも生真面目な宗教だということを確認しつつ、ふたりそば屋をあとにしたのだが、そんなことを確認しながら道を走っていたせいかいつのまにか全然知らないところに迷い込んでしまい、ただでさえお足元の悪い日だというのに随分大回りで帰るはめになった。

フレーブでおやつに甘いパンを買い、桜田モスでぼくは町田の「猫にかまけて」を、さぽは最近島田が雑誌で絶賛していたおもしろそうな脳の本を読み、笑い、泣き、ひろみつからいま帰ったと連絡がはいったので新居に野菜をとどけにいくとちょうど公一船長が帰るところで、ほんで格段に広くなった、やけにながめのいい新居で2時間ほど過ごし、で、ちょうど良い時間になったのでフォーラムに行き、今日までのタダ券をつかって「砂と霧の家」を観賞。 評判通りの重くてひどい話で、誰も悪くないのに避けようのない悲劇にむかうストーリーは実に丁寧に練られていて小気味よく、ジェニファーはかわいそうだしイラン人は素敵だし、警官も軽薄だが悪い奴ではないし、世の中の憎悪ってのはこうしてなにもないところから生まれるんだなとおもった瞬間に、いやいやもとはといえば間抜けなミスをしでかした役所が悪いんじゃないかと思い出し、やっぱりどこでも公務が、つまり「国」とかいう幻想こそがくさっているんだと確信。 アメリカだってひとりひとりはすばらしいのに、「アメリカ」となったとたん強烈な悪になるというじゃないか。  こういうものを人は「魔」というんじゃないか? むかしカズと話していて、仕事で公告を作る際、クライアントが「こんなのよくないけどこうしないとだめなんだよね」みたいないいぶりで愚にも付かない表現を要求してきて、もちろんこちら作り手もそんな表現はどっからどうみても良くないと思ってしかしクライアントの要求だからとそれを作るほかなく、そしてクライアントの客であるその広告の対象、つまり一般民衆もそんな表現は全然良いとは思わず、こういうひどい公告が多くて困るなんていっていて、じゃあ一体誰がこのひどい公告を求めていたんだ???ということがよくあって、それがすなわち「魔」ではないかと。 罪を憎んで人を憎まずの「罪」は人に一瞬さした「魔」のことをいっている。  とにかく自分のことだけしか考えていない「公務」の何恥じるような公務員は今一度学生時代のアルバイトのその労働量に対する対価の小ささを基準に自分の働きがその給与に見合っているのか考え直して見合っていないと感じたならすぐにでも「わたくしの時給を350円にしてください」と申し出て身を清めて貧しくしかし幸せに暮らすことを考えた方がいいですよといいたくなるような映画でした、今思えば。   家に帰ってマクロビな薄味ラーメンを食べ、明日からの逆の意味で対価に見合わぬ労働にぞっとしたので泣き出さないうちに寝た。 早朝ヨガ再開だ。

2005-01-10-MON

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