No.868 人格とか性格とよばれるもの

早く成長した木というのは、カラカラ軽くて燃えるのが早く、それで沸かしたお湯は突き刺さるような刺激があるという。 逆にゆっくり成長した木というのはノシリと重くて、じっくりと燃える。 お湯は柔らかく、同じ温度でもこちらのお湯は高温でも案外平気なのだそうだ。  おもしろい。 カラカラの木は人間でいえば薄命の天才かはたまた世に溢れる器用貧乏か、どちらにせよ彼らのもつ圧倒的スピードと往々にして見られる彼らの辛辣さ、全体との不調和などの印象が前述の特徴に重なる。 そして世の中的には後者の木が主人公になるのが物語の落ち着く条件なんだろう。  わたくしは確実に前者のしかも器用貧乏なのですが、そのことに絶望することもなく日々をヌルヌルと過ごせているのもひとえに「人格」なるものを絶対視していないからに他ならず、わたくしがわたくしと思うわたくしなんていうのは実は非常にあやしいもので、わたくしの、またはみなさまの思うわたくしの人格なんていうのは普段使い慣れた記憶や智慧のことでしかなく、すぐに検索できる地下の記憶のアーカイブなんてものはその表面に浮いたわたくしなんかの比にならない膨大かつ複雑なものであることを知っているのであり、わたくしの中に記憶の残る他人の印象なんていうのも意識的にオモテにだせばそれはあたかもわたくしの新しい性格にとってかわれるわけで、しかしそんなものもともとあるわたくしのOSが動かしてるソフトでしかないんじゃないのといわれそうですが、それもしばらく続ける内にもともとの人格(OS)なんてものがそもそもあったのかということになってきて、あるのはただ整理されなていない膨大な記憶の断片の渦であるとすぐに気付き、そうすると自分が対峙する人によって全然違った態度、というよりも違う人間のようになってしまう(打算やなにか制御しておこなう変化でなく、知らずにそうなるあの変化)不思議にも説明がつくのです。 つまりわたくしの性格とか人格とかいうものを決定づけるのは周りの環境でしかなく、動かない環境下にいれば当然いつも同じ記憶を同じように使い続けるからそこにひとつの人格が固定されたように思うだろうし、いつもの記憶の運用では対処仕切れない異物に対しては自分でも慣れない自分が現れるという寸法なのでございます。  それゆえわたくしは必要以上にいつものわたくしの特性を非難したり絶望したりすることはないと感じているのでございます。 それは、つまらない環境にあってはつまらない自分になりがちだと納得しているし、圧倒的美しさには自分でもほれぼれするような美しさで応えることができるという自負が人一倍強いからでもあります。 だからこそ人は、大自然に出かけていき、本を読み、音楽を聴き、美しい悲劇を好んでみるのです。 そこで吸収することももちろん大事なのですが、そこに感応することこそが一番の喜びだからです! ざざん!

2005-01-12-WED

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送