No.875 キーワード

うんこしていてフとおもったことなんだが、よく「自分は絵が描けない」という人(注1)は、「絵」を描けないことよりも、「絵を描けないと思ってしまう」ことこそが「絵が描けない」ということなんじゃないだろうか。 「絵が描けない」という言葉がもつ「ニュアンス」の意味するところは、「絵」が描けないことなんじゃなくて「『絵を描けない』という【現象】を容易に受け入れるその【性質】」のことをいっているんじゃないだろうかと。 勝手に描いている人たちからしたら、「絵が描けない」という観念はそのもの難解な哲学であるとおもう。 「絵が描けない」なんてことがあるのだろうか?? この人はなにかわたくしに難解な命題を突きつけているのだろうか?? きっと言葉をそのままとっちゃいけないんだ、わたくしの絵が相当にマズイことをこの人は遠回しに非難して、それをこんな神秘的な言い方で指摘しているんだ。 とでも勘ぐってしまうだろう。 かわいそうに。 なんのことはない、いった本人はただ単に「言葉」に振り回されているだけなんだが。

「絵が描けない」という人はノーマルと芸術をも分けがちで、世界をいったん単純化してからでないと理解しようとしない場合が多い。 あるがままを未消化でとりあえずいれておく、そして苦しむという遊び方を嫌う。 ぼくは名画にいちいち説明を求める「芸術界」こそはいちばん芸術から離れているのではないかしらと学生の頃から今に至るまでずっとおもっていて、もちろんバックボーンをしることで理解を早める、無駄なブレを弱める、ドキリとするタイミングを本人の状態いかんによらずにその時空に召還するという働きはとても強いとおもうけれど、はたして芸術はそうした合理的なお見合いとか合コンの仲人や幹事さんみたいなものを本当に必要としているのかしらという疑問がいつでもついてまわって、美術番組で某太郎と某子があーだこーだと故人の絵について勝手なことをいっているのを見ると、それによって知ることができた貴重な情報があるにもかかわらず、心は正直うんざりしてしまう。 すばらしいものをみんなですばらしいといっていろいろ考えて意見交換して楽しんで明日の糧にすることを当然であると認めじぶんもあらゆる行動の中でそれと同等のことをしているからこそ成長があると知りつつも、そこにある醜さ、対象物へのある種の冒涜みたいなものを思うと心が張り裂けそうになるというなんとも消化しがたい二律背反がつねにデンと居座る。 「絵が描けない」なんていうおとぎ話と無縁な人は、必ずこの違和感をやはり感じていて、例えスキルとしての具体的なデッサン力が無いとしても、自分は誰よりも「絵が描ける」というようなことを強く思っている。 つまり言葉や観念に翻弄されることなく、世界における「絵」とか「芸術」というものの実態と、自分との関係、距離感を、なんらかの精神的な嗅覚で正直に感じているのだ。  それは当然森羅万象すべてに対する態度につながり、そういう人の市井の評判は良くも悪くも「ウラオモテのないひと」ということになり、ぼくはやっぱりそういう人に惚れるし憧れる。  「絵が描けない」といって描くことをさっさと辞退したり「ぼくは芸術はわからない」とか「やっぱりあんたは芸術家タイプだなー」とかいって簡単に世界に線を引いたりする人は、あらゆることを社会的バイアスによって差別的に見がちで、あらゆることを自分の言葉に置き換えてしまって行間なんかばさばさきってしまって、誰かが誰かの都合で流布している稚拙な観念にすっかり乗っかってしまっていることにも気付かずに、しまいにはおめでたくもその無頓着さに雄大さを重ねてなにか自分を大物にでも見立ててしまって、もうこちらはただ閉口。 ただただ閉口。  幾度となくそういう人を見ては例外なく失望して悲しい気持ちを味わってきたため、もうパブロフの犬よろしく、そういう「キーワード」を口走ってしまった人はその瞬間に「傀儡」の称号(レッテル)が頭上に光かがいて見え始めて、その輝きは奇跡でも起きない限り消えることはない。   それゆえ蒼天航路の孫権が「“要は”っていうな。“ふたつにひとつ”とかなんでも無理矢理わかりやすいものにするでない」と怒ったところがとても気持ちよかった、という話。

(注1)自分がすばらしいとおもう絵に比べてまだまだ自分の絵には魅力が乗っかっていないとかいう謙遜の簡略化で使う場合の「絵が描けない」ではなくて、すばらしいと思う絵もなく、しいてすごいとおもう絵と言えばやたら緻密な具象画といった類の、漠然と無責任に「私は描けないから」という人ね

2005-01-19-WED

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