No.887 黙祷

さぽちゃんすのお母さんの叔父さんにあたるふみおじちゃんが亡くなった。 いつも正月にちょっとだけ会ってお話しして、で、最後にぽくぽくとしたおっきくてあったかくてやわらかい手と力強く握手してお別れしていたのが思い出される。 握手はふみおじちゃんが必ず求める。  ところが今年にかぎっておじちゃんが体を壊していたのと、夕食時にいってしまったのとで、家にあがらずにおじちゃんにも玄関先から挨拶して簡単におわしてしまった。 それがとても心残りのさぽは、ほとんど母方のおじいちゃんのような存在だったふみおじちゃんのお葬式にどうしても行きたいという気持ちになり、で、今日はとしみつと福島に帰っていった。  ぼくはこちらでふみおじちゃんの手のイメージをしながら黙祷。 黙祷というのは、いままでなにを考えていいのやらわからなくって、どうしてもくだらない雑念といりみだれる自分の脳波に逆に傷ついてしまう行為だったんだけど、最近なにかがぱっとつながって、相手のことを短時間でも集中して「思おう」とするその行為そのものがとてもいいことだなと思えるようになってきて、いつのまにかこの黙祷が大好きになった。 雑念を振り払うなんてことはよほど脳の使い方について集中して特殊な訓練でもしないかぎりそうそう素人ができる芸当ではないのだから、くだらないことや破廉恥なことや非道い考えなんかと平行してしまってもなにも悪いことはない。 それらは脳に定着した記憶なのだから、不謹慎だと奥底にしまおうと意識すればするほどオモテに色濃く浮き上がってきて当然なのだ。 何も気にすることなく、ただただ相手の特に好きだった部分、印象に残っている要素を丁寧に丁寧に思い出すことが大事なのだ。 ぼくは自分が死んでもお葬式なんてビジネスライクで教条主義的な催し物(あくまでいままでみてきたぼくが知るところのお葬式はこういうものだった)をこれっぽっちもして欲しいとはおもわないけれど、ぼくの考えるような黙祷ならば、たとえ10秒でも、やってもらえることがとってもありがたいとおもえる。  生活していて、ふと、ばあちゃんのことを思い出したりすると、ぼくも死んだあと、自分のことを一部分でもちょっとでも好いてくれた人に、こういう風になんでもないときにちょっとだけ思い出してもらって、そして季節の匂いがしたときのような感じで気持ちよくなって欲しいなぁ、とおもう。

2005-01-31-MON

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