No.914 なぜ、偏った行為、現象というのは醜くも魅力的なのか?

綺麗に目覚め、お風呂に入り、朝食までの1時間をバス読に。  バビロンに行きて歌え。 中東の革命兵士が本国であぶなくなって、密航して日本に不法入国して、いろんな人のお世話になる話。 ティオ同様、かかわる人、事件ごとの連作形式みたいだ。 楽しい。

ぼくは最近おもったのですが、なにごとも、興味が最高潮の時に、モチベの熱いうちに、狂ったみたいに集中して、一気にその対象物を味わい尽くす、ということがとても大事なんじゃないかしら?  そういうときの執着心とか集中力とか脳の働きとか定着率とかって、火事場のクソ力的な凄まじい謎のような強力さがあって、かかわる濃度が平凡な時間のそれとまるで違うのだもの。  「あれはいい読書だったなぁ」とか、「あの散歩は神がかっていたなぁ」とか、「あの曲を超える曲はないだろなぁ」とかいうのは、ほとんどの場合、それを受け取っているときの、偶然にしても意図的にコントロールしたにしても、自分自身の超人的な感受増大が原因なんじゃないかとおもうのです。  したいときに、したいことを、したいだけするというのは、自分や環境のエネルギーの流れが、完全に目的をひとつにして迷いなく、太い赤い光る矢印がすごい早さで真っ直ぐスっ飛んでいくような、爽快で、美しく、正しいことのようにおもえるのです。  普通1日にこういうことをこんなにするもんじゃないとか、こんなに覚えられるわけがないから今日はテキストの3章まででやめようとか、俄然ノってきたけど約束の時間だからやむなく中断とか、今この話は5時間かけてつみあげてきたことが爆発するようなすばらしい感動のピークだけど、窓の外に死にそうな人がいるから助けにいかなくてはとか、このおいしい料理をあと3食分たてつづけに食べてみたいけど、わたしは文無しだから食べれないのですとか、そういうことは人間の、社会の、便宜的な都合であって、もちろんそういうものが積もり積もってできた観念の上に今日の美意識だとか道徳観だとかが成り立ってはいるんだけれど、しかし仮にそういうのをもしまるきり無視できるんであれば、ほんとに求めるままに自分のその時一番求める価値に従順に行動できたならば、なにかびっくりするような、それまで世界にほとんどなかったような、濃厚な交感がそこには生まれるんじゃ無かろうか、つって。  もちろん便宜的な都合で雁字搦めな環境に生きている以上(栄養や睡眠をとらないと死んでしまうというこの肉体の束縛だってそうとうのもんだ)、「自分のその時一番求める価値に従順に行動」することでさまざまな不都合が生じるのはやむを得ないけれど、あまりにも外側の都合に迎合しすぎるような態度、それに慣れてしまって行動の配分方がおおざっぱに決まったものになってしまう状態、というのはいかがなものかと、考え直そうとおもいたったのです。 仕事中だろうがなんだろうが、英語の仮定法がどうしても気になったなら、おもいっきり納得いくまで調べればいいのです。 バランス良く、行儀良く、うずうずするのをこらえてやっつけた仕事になんてなんの魅力もありません。 イタリア料理のコースを食べにいったものの、前菜を食べ終えて次を待っているときにどうしてもラーメンが食べたくなったなら、となりのラーメン屋に走ればいいのです。 さて、自分で書いてて「そりゃないだろう」と思うわけですが、はたしてその「そりゃないだろう」は、一体何に対してのどういう価値尺度によるものか、その尺度は唯一無二の絶対的なものなのか、その場合の最終的な場所にある「目的」なるものは宇宙に共通するようなものか、そもそも「宇宙に共通するようなものか」どうかというのは気にしなければいけないものなのかうんぬんかんぬん。

で、ぼかぁなにが言いたかったかといえば、今日はもう1日中、猿のようにフォックスづけでした。 たぶん、集中しすぎて、体とか光ってました。

2005-02-27-SUN

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