No.906 ほんとに、たまにね。

あまりに厳しすぎるなと反省することもままあるのだが、ならどうしたらいいかなと考えたときに、「そうでない」やり方というのは結局漫画やドラマでならなりたつけれど、漫画やドラマで映し出されていないところ、例えば印象的なエピソードからロングになって次の日に変わるときの、その印象的なエピソードの場面を抜け出すグラデーションというのはやはり描かないだけあって描「け」ない、なりたたないということなのだとおもうのだ。  自由になったつもりがなにか大きいもののとても都合の良い駒に成り下がるということにつながり、カトリック→プロテスタントで手に入れた我がで決めるというとてつもない苦痛を伴う真の自由を放棄する方向を推奨したいがために、いろいろ理由をつけては自己肯定的なことをもはや自らも気づかぬうちに癖のように身にまとう。 魂の芯の方でそういうだらしなさとかごまかしはとにかくだめだ!という火が時にはくすぶり、時には燃え上がるために、やはりどうしてもあらゆることに厳しくなってしまう。  そのせいかどうも内側と外側の間に常にもわっとした膜のようなものを感じてしまい、それがちゃんとしっかりほんとうにすっかり消える夜の散歩とか山の奥での釣り、すごい音楽にのめりこむ、痛々しいほどの美文でカタストロフィ、なんてのはとてもすがすがしく開放されて、救いなのだ。  そして外側のそうした救い(といってもフィードバックして増幅していくマイクロフォン+アンプリファイアが自分自身である以上すっかり外側ともいえないのだが)以上に救われることがひとつ。 世界にきびしくあるためには、それ以上に自分自身にきびしくある必要があるのはいうまでもなく、そうして過ごすことで得るものというのは、その苦を決して裏切らないだけの価値あるものだということ。 表面的なことは本当にどうでもいい。 世界でたったひとりでも、自分がその人を心から尊敬できる人に、ぐしゃぐしゃに頭を撫でてて褒めてもらいたいだけだ。

2005-03-18-FRI

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