No.923 きちんと三次元に生きる

歩いて帰るとおもうんだけど、三次元を三次元として常に生でとらえているっていうのは、人間にとってとても大事なんじゃないだろうか?  前になにかで、「もしあそこに自分が立っていたら、景色はこうだろう」というようなことを頭の中で考えるのが脳にとてもよいという話をきいて、ああ、これぼく良くやるわ、とおもってうれしかったんだけど、確かに、歩いていて、ただぼーっと前の方や足元をみて三次元的に世界を意識しないで歩くよりも、通り過ぎる建物なんかを横をみながら歩いて、どんどん角度が変わっていくのを見たり、層になって多重スクロールする建物の動きに意識したり、わざと看板なんかを変な角度でみあげてその形をなめ回すようにとらえたりしながら歩いた方が、断然楽しくて、みるみる頭が冴えてくる。 思考速度がすごいことになってきて、今麻雀したらめちゃめちゃ強い、ひきまでいいはずだ、という状態になるのだ。

もちろん三次元に生きている以上、なにをしてようがその光の情報もそれに対する処理もいったらすべて三次元的なんだけど、しかし例えば一日中パソコンに向かって画面をみているようなぼくみたいな仕事は、実質的にはひどいブラックボックスを経た上での2次元的処理しかしていないことになる。 というか、そもそも行動と結果の因果関係が自然界の法則とはなんらかかわりのない、非常に危険なことだと思えてきた。 毎日毎日指ををカタカタうごかしてキーボードをたたいたり、マウスを持った手を10センチいないの枠のなかでクリクリ動かすことで、いろんな情報をあやつっているけれど、自然界にそういうものはない。 右手の人差し指でマウスのボタンをを押しながら、左手の人差し指でキーボードのスペースキーを押し、右手全体を左上にちょっとだけ移動すると、800%に拡大されたA3の紙面の一部が左上に飛んでいって、さっきまで映っていなかった右下の紙面の拡大が現れる。 そういうことは、この世には起こりえない。 800%に拡大してみるには紙にうんと顔を近づけ、その右下を見たいなら、紙をもって左上に動かすか、顔を右下に向けなければならない。それが現実。  茶の間に座っていて、ただ箱のなかを見ているだけで、小さい人たちが目の前で楽しいことをしゃべりあいながら大きくなって顔だけになったりさらにちっちゃくなって大勢になったりすることは、自然界には起こりえない。 そういう、体と世界の関係性は、ない。  何か直方体に向かって歩いて近づけばそれはどんどん大きくなり、横を通り過ぎればさっきまで見えてた面は細くなっていき、さっき細かった面は逆に広がり、そのうち最初広かった面は消えてなくなり、2番目に広がった面が一番大きくなった瞬間に3番目の細い面が現れ、それがだんだん広がっていくに従って2番目の面はどこまでも細くなっていく。 首が痛いので前を向く。 全ての面は一瞬にして消える。 これが正しい因果関係。 長年、人として脳が知っている世界と体の動きの関係。

体を動かし、移動を意識し、モノの形をとらえ、世界の見え方を認識し、相対的な動きを考え、理解し、触り、感じ、そうしてしかるべき対応をしていく。  それが本来のありかただ。  パソコンばっかりしてると馬鹿になるってのは、なんの比喩でも揶揄でも警鐘でもなく、この観点で、まさに現実だと確信。 こんなめちゃくちゃなインプットとアウトプットに体が頭がさらされ続けたら、そりゃ馬鹿になるさ。 病気になるさ。 精神がおかしくなるさ。   あ!と声をだしたつもりが屁がでるようなもんだもん。 なんの脈絡もなくけっ飛ばされたかと思ったら今度はいきなり過剰にかわいがられる、躁鬱女に飼われた猫みたいなもんだもん。  普段、そんなおかしな世界にどっぷり漬け込まれていたから、当たり前に歩いて、当たり前に、自然の法則にかなった結果がかえってくることに、心も体も喜んだのだ。 なぜただきょろきょろしながら好き勝手に町を歩くことがこんなに気持ちよくて、頭が冴えて、幸福感に包まれるんだろうと、本当に不思議だったが、たぶんそういうことなんだとおもう。  顔をあげれば空が見えて、振り返ればさっき横を通ったものが別角度で見えて、ゆっくり歩けばゆっくり景色が流れ、目をつぶれば世界が消え、そういうことが、正しい結果が、うれしくてしょうがなかったのだ。 「ああ!やっぱりこうなんじゃん!」と、ゲームの疑似3Dや日々の2次元性によって混乱していたDNAがほっとしたのだ。

2005-04-04-MON

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