No.1006 運動意欲

なにがかっこよくてなにがかっこわるいのか、かっこいいことがかっこわるいことはよく知っているが、かっこわるいことはやはりかっこわるく、かっこよくありたい気持ちはすでにかっこわるいようでいて、しかし実はかっこよくありたい気持ちをかっこわるくするのはそういう(うっとおしい観念によって他を引き下げることで相対的にかっこよくなる〈実際なんないが〉しかない)いやらしい外側の目でもあり、そういういやらしい外側の目というモノは格別しっかりかっこわるく、なんてなことをまたひとつ外側にでてわかったような顔でいってることこそ究極にかっこわるく、ならば語らずなにもせぬことが究極にかっこいいのかといったらやはりそんなこともなく、いきてるかぎりかっこわるいことは仕方ないなんて簡単に結論づけるのもまたかっこわるく、まして自決なんてのも一部ペラペラにとっての表面的なかっこよさこそあれ、なんだかんだ一生懸命考えればすぐにかっこわるいことだとわかり、つまるところぼくはかっこいいとかかっこわるいというときの「かっこ」なるものは幸せとか不幸せとかいうときの「幸」なるものに似ているのではないかと思いまして、ようするに絶対的なそういう状態でもなければ、相対的な位置関係の差異だけにおさまるものでもなく、そういう差異を捉えた上での一連の「運動の状態」のことなんじゃないかと。 どうもここのところそういう意味で「運動不足」だったみたいで、今日、ひさしぶりにいろんな人のいろんな「運動=かっこ」の嵐にまみれることで、自分の中でも「運動意欲」みたいなものが湧いてきて、そのことが嬉しくもあり、同時に根本的になにも成長していないんじゃないかという気もして、なんとも複雑な感じなのです。 気持ち悪いのです。 で、それがまた快感なのです。

2005-06-27-MON

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