No.1007 細読み

初夏の花粉症なのか梅雨の湿度や気圧のせいなのか、はたまた疲れがたまっているのかストレスか、最近眠くてしょうがない。 とうに読み終わっているはずだった本がなかなかすすまず、毎晩いけないとおもいつつも細読み、細読み、細読みの連続。 これでは全然楽しめない。  小説の細読みは、言ったら、音楽を数秒聴いては中断して、すこししてまた再開して聴いて、また数秒でやめて、てのを繰り返しているようなもんで、それでは今聴いた「ドッ」が裏なのか表なのか、聞こえるコードが曲に対するトニックなのかドミナントなのか、そんな基本的なその曲のその部分の本当の姿、本当の位置すら判断できず、さら細くなればひとつの音色のアタック音とサスティンまでもが分離されてしまい、もうなんのこっちゃか、なんのために何を聴いているのか、そもそもそれは「聴いている」のかさえ怪しくなってくる、のと同じで、全体の中でその部分がどう機能しているのかが正しくつかめないことで、真におもしろいところをことごとく逃し、あまりにも作者の意図するところとかけはなれた、間違った退屈なものを受け取ることになってしまう、ものすごく勿体ないことだとここ数年で思い知り、できるだけそうならないように気を付けて過ごしている。 理想は一気に集中してすべて読んで、読み終わって一晩たってもう一度すぐに読み返すというぐらいをやるべきなんだけど、まあムリなので少なくとも最低限楽しむためには一回で100ページは読むべきだというのが今のところの実感。そうしたときの入ってくる質感、量感は本当にまるで別物。 保坂がいうに、作者と同じレベルまで作品を理解して楽しみ味わうためには、ほとんど暗記するくらい読まなきゃムリだそうで、たしかにそうなんだろうとおもう。 ただ、100ページぐらいをまとめて読むと、だんだんと、なんというか作者がそれを書いたときの思考のスピードというのがつかめてきて、いや、つかめるというか乗り移ってきて(本を媒体にサイコメトリックみたいな)、いわゆる「ノッた」状態にポコっとはまり、そうなるともう信じられないぐらい、なんの障害もなく、自分の知さえも越えて、かかれてある智慧が、情景が、感情が、当たり前のように、己のことのように、とんでもない濃度、とんでもない流量でもってどぶどぶ流れ込んでくる。 これはなにも読書に限ったことではなく、麻雀でいうときのひきが強い状態しかり、絵をかいていてなんだか知らんがいい線がどんどん書ける状態しかり、なんかしらんが今日おれめちゃめちゃ面白いっていう日しかり、いろんなことでこれと似た感じは覚えがある。 以前ドクターシーゲルという日本のすごいギタリストがいっていたのだが、若いときにイギリスにギターの武者修行に行ったときに、スタジオにはいってプロのミュージシャンのリハだかレコーディングを見る機会があったそうで、そうしたらやつら(あちらのバンドメン)、ひたすら同じ、単純な8ビートのリフを繰り返すだけで、一向に演奏を始める気配がなく、シーゲルははじめ????だったのだそうだ。 延々と繰り返すこと数時間、やっとおわった彼らに一体どういうことかと尋ねると、始めにこのくらいやらないと、全員のビートが完全にシンクロしないのだそうだ。 はためからみたらそんな単純なリフ、最初からばっちりあっていたようにしか聞こえなくても、それぞれの微妙なシンコペーションの癖とか、言葉にできないグルーブ感てのは、そうやって長時間ひたすら単純なリフを全員が繰り返すことで無意識に歩み寄っていって、自分の内側の感覚と、外側の感覚、そしておそらく世界そのものの運行が完全に解け合っていくのを受け身になって(実際には能動的にそれを促しているわけだが、しかしいつその時がおとずれるかわからない以上、それは受け身だろう)待つしかないのだ、とおもう。 そして一回に100ページは必ず読もうという決めごとは、まさにそれとまるきり同じことをしているのだとおもう。 自分の速度と、作者の速度、そして全体の、地球の、世界の、時間だけではないなにかの速度をばっちりつかむと、その瞬間がらりと景色はかわり、いままで文字の並びを頭の中で音読したのを脳が音なき音として聞いて理解していたものが、ダイレクトで己の智慧に感情にはいってくるようになる。 その状態が幸せでならない。 これは文章を書いているときも同じで、誠実に頭を使ってひとつのことを一生懸命考え抜いて、ごまかしの言葉に逃げずに自分のストックで可能な限りモノゴトを因数分解をするということをぶっ続けで何時間もやった先に辿り着く境地は、自分でも驚くほど新しい発想、新しい表現が次々に生まれるというユメのような状態で、しかし時間に縛られた日常ではよほど覚悟しないとそんな状態にもっていくようなことにはまずならず(ぼくは人生でまだ二桁もない)、いつもノる前(前も前)の中途半端な、ありものの言葉の、ありものの考えのコラージュで、なんとなくずるがしこくキラメキを演出するにとどまる安っぽい言葉遊び発想遊びの領域をでれず、ああ、情けない。  細読みの弊害は小説だけじゃなく、章立てされたエッセイなんかでも実はおこりうることだと思うのですが、息切れしてきたので帰ります。

2005-06-28-TUE

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