No.1029 小説の自由

たとえ「オラは海をぼけーっとみてるときにいちいち言葉なんかにおきかえなくても体や胸のおくで世界と直接ふれあって感動しているダニ」なんていくらいったところでその一見直感的で素直そうな感じ方そのものが皮肉にももっとも言葉によって長い年月かけて形成された世の中にゴロゴロころがった便利な(便利か?)紋切り型の型をなんにも考えずにその背景や構成要素など知らないままなんとなく表層でつかっちゃった結果であり、思考することそのものが根本的に、原理的に、どうしたって「言葉」にささえられている以上、それを否定することほど「言葉」的であることはないという矛盾、空間と時間、光までもが一緒になってぐにゃりと歪めば中の人は整然としたユークリッド幾何学の成立する信頼できる絶対的な空間に一切の歪みを感じることなくあたりまえに「なに? 歪んでる? 歪んでないやん。 まっつぐやん。」つって平然といられるのと同じ、知らずに自己否定、信じる現実と実態としての現実との差、おもろ。 だので言葉による芸術、小説について(ライトノベルは似て非なるもの)テッテ的に、変態的に真摯に考え論じることは、とうぜん小説についてのメタ学問などで閉じるものであるわけもなく、そこには知りたいこと、知るべきこと、芸術の、人の営みの根本的な価値についての相当に広範囲で高濃度な内容がしるされていて、たまらんわけです。 ここまで、おしみなく、寿命をちぢめて脳汁をしぼって魂をつかって、芸術の「表現」の現前性、そのドライブ感を扱ったメディアを他にみたことがない。 いろいろ書きたいことが山ほどあるが、あわててかいつまんで紹介しようとしても、あまりに鋭すぎて、見るも無惨な縮小再生産にしかならないことが目に見えてなんもできん。 すごいすごいと阿呆のようにいってるしかない。 そもそもあの横にズリズリズリズリとすべりながらそもそもなにをいっているんだかわからなくなってきちゃったというような中にあってしか見えてこない本質ということもあるわけで、音楽や小説のように全体像をとらえるということが実は不可能で、瞬間瞬間の相対を感じながら、その相対性のルールから類推したり反省したりすることでしか感じられない、感じようがないリアルタイムの体験者だけが享受できる現前性というのがあるわけで、つまり象徴的で新鮮な「部分」を引用したとしてもそこに込められた価値ってのは結局この本を読んで前後のもがきを経験しなきゃ感じようのないものであるってことで、やっぱりぼくができることはすごいすごいと阿呆のようにいってることだけなんだけど、このセンテンスで実はこの本が前半いっていることのある核たるエッセンスを表現できてないこともないかもしらんなどとおもっていたりもしないです、おこがましい。 がっ。

2005-07-20-WED

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