No.1098 夏目漱石

国語の教科書抜粋は別として、初漱石体験。 こころ、めちゃめちゃおもしろい。 あまりにも有名でなんとなくスルーしてた名作たちは、やはりほんとにおもしろいのですね。 これが好きで半年に一回読み返すという人の気持ちがとてもわかる。 このひとの文体はとてもすぅと癖無く容易にはいってきて、しかしまぎれもなく、鋭く美しくアートやね。 小説の自由を平行して読んでるから無意識で文体の、人称の、構成の分析をしてしまうのだが、夏目さんの文は圧倒的に粋やね。 こうかくと合理的、無味乾燥なようにとられるかもしれんけど、とにかく過不足ない。 一番効率的に、一番美しく、情景が、心情が、時間軸をともなう芸術としての瞬間瞬間の相対美が、表現されている。 当て字を使うことになるその感覚も、別にたいした意味なんかないことが見て取れ好感がもてる。 そういうことは考えてすることじゃない。 きれいだとおもったんだもの、そのバランスが、スピードが、つまづきのでこひこが。 最小限の風景描写のはずなのに、たとえば移動しながらの会話などでは、最初にちらりとそこがどういうところでどんな天気かかいてあるだけなのに、なぜかまったくふれてもいない移動にともなう風景の質感の変化などまで伝わってくるのが不思議で気持ちよくてしょうがない。 単純に心情の変化の、ふたりの会話の居所のメタファーとしての「環境」を安易に想像してるなんてことではなく、それとは全く関係ないところで厳然とそこにある世界のにおいが、なんも勘ぐらなくてもすぅと染みてくる。 霊的ななにかをこめちゃってんのか、無意識で。  さて、帰省して数日家にいると必ず感じるたまらなくいやなあの感じを、あまりに的確に表現していたのでここに引用。

私がのつそつ(退屈の意)し出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐になって来た。 これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほやもてなされるのに、その峠を定期通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者の家へキリシタンの臭いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留まった。私はつい面白くなくなった。 早く東京へ帰りたくなった。

うまい。

2005-08-02-TUE

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