No.1063 葛湯

葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして箸に手応えがないものだ。 そこを辛抱すると漸く粘着が出てきて、かきまぜる手が少し重くなる。 それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。 仕舞いには鍋の中の葛が求めぬに、先方から争って箸に附着してくる。 詩をつくるのは正にこれだ。(漱石「草枕」)

うまいなーたとえが。 日々モノを考えて拵える人ならば強烈にピンとくる感覚じゃないか知らん。 もちろん「詩」は絵でも本でも茶碗でも椅子でも歌でもなんでもいい。 さらさらの状態であきらめてやめちゃう人がよくいるが(なぜか往々にしてそういう人ほど個展だのグループ展だのを率先してやりたがる)、あのあと現れるこの感覚のことを不幸にも知らないのだとおもう。 辛抱して、辛抱して、辛抱して、ひたすら記憶を智慧をかきまぜて、がっかりするような手応えのなさ、己の無能さに打ちのめされて、心が体が壊れそうになってもそれでも辛抱してかきまぜてあがき続けることで、どんどんそれらは苦しんだ分だけねっとりとした手応えのあるものに変わっていくのだ。 仮にそこでやめても、そこまでがんばって粘りの出たモノはそれなりに「すごいもの」には育っているはずで、時と場合と人によってはそれで満足いくだろう。 さらさらとねっとりとでは0と1ほどの違いがある。 しかし、廻しきれなくなってもまだしつこくがんばり続けると、本当に「求めぬに、先方から争って箸に附着してくる」状態というのがやってくるのだ。 当たり前に生活してるとなかなかここまでたどり着くことってのは難しいが、なにかつくる事を生業にしていて、とんでもない価値を生み出せる人ってのはいつもそこからが勝負という高い次元で生きて居るんだろう。 ここぞというときは廃人覚悟で練り廻しつづけるが、日常的にあそこまでがんばるのは心がもたない。 がんばりたいが、日常と芸術の渦に精神がやられ、ぽきりと箸が折れる。 精進精進。

2005-08-25-THU

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