No.1065 唐松観音キャンプ場にてテント泊

ちゃんすがバイトしている間に蛸だの葱だの食材を買いそろえる。 ひとつ花椒というのがスーパーで聞いてもわからず、一度帰って調べたところ中国の山椒でホアジャオと読むらしく、大沼ならあるかしらと地下食品売り場にいってみると、あった。 さすが。 ついでに八文字屋によってアンナ・カレーニナを衝動買い。 ずっとドストの悪霊を読みたいとおもっていてそれ目当てにいったのだが、同じく気になっていたこっちに食指が。 トルストイ初体験。  家に帰って北アフリカの戦地で捨て身の前線を張り、作戦遂行。 ドイツ人将校を抹殺し、ミサイルを破壊。 次なる戦地スターリングラードをちょとだけ歩いてみてこりゃ無理だと現代に帰還。 外にでたら東西に極端なパースをつけてのびる見たこともないような大迫力の(テロップ後に登場するスターデストロイヤーよろしくな)雲をみつけ、たまらず河原に散歩。 アンナ・カレーニナをもっていったが、現実世界のあまりのうつくしさに読む隙がなかった。 今日の景色、空気、匂いは今年一番。 冗談じゃない。 そしてこの雲でしょ。 寝転がり、雲を凝視、飛蚊症のちらちらがきになるが、それにもまさる巨大戦艦の魅力。 どんどん東の空に消えていく戦艦。 いつも鏡のような水面の小堰堤がごうごうとうなる。 しあわせ。  戦艦がすっかり見えなくなったちょうどいい頃にちゃんすからバイト終了コール。 すぐさま迎えに行き、暗くならんうちにちゃんすにも今日の日の自然景観をと現地に急ぐ。

先週ロケハンした唐松観音下の川岸のキャンプサイト。 中堰堤はドウドウと激し、釣りどころでない。 日が落ちかかってきているので急いでテント設営。 ようやくテントがリアルキャンプで活きる時が来て、うれしい。 ぼくらの他にもう1パーティー奥でバーベキューしている。 複数の家族か。  ぼくが炭を熾してるすきにちゃんすが食材を切り、ちょうどいいタイミングでタコだの葱だのを炒め始める。 炭火ではどうしても炒めるときに火力が弱い。 常に平行して焚き火をするべきなんだな。 さっと炒めたらタレを残して食材を一度ひきあげ、そこに米をいれてタレを吸わせ、十分吸ったところに水を足して、蓋をしてご飯を炊く。 火が弱いので炭を追加で熾し、ダッチ足下に補充。 だいぶダッチの扱いにも炭の扱いにも慣れてきた。 何回か蓋をあけ、ご飯を食べてみて出来具合をみる。 底にへばりついてきたのでもう蒸らしたほうがいいというちゃんすの判断で火から下ろし、数分蒸らす。 さっきとっておいた食材を戻し、混ぜ、完成。 スタッフドチキン、ラタトゥイユ、ローストビーフに続き、第四段はコチュジャンの辛さが冴えるタコ飯。 実にいい匂い。 辺りはとっくに真っ暗になっており、先日買った頭につけるLEDの小さなライトが思いのほか重宝した。 ひとりづつこのライトをもっていれば、周りにまったく光源がない状況でも問題なく料理その他の活動ができることを知る。 ピンポイント、最小限の適所でこういう文明をもちいることは美しいことだと思うが。

はたしてタコ飯は大成功。 これは万人に受けるであろうすばらしいキャンプ料理だ。 うまい! ビールと無印のインスタントサンラータンがこれまた旨く、キャンドルランタンの仄かな明かりのもとの初ふたりキャンプ夕食はとても楽しく美味しいものになった。 右手には山の稜線の漆黒のシルエット、左手にはダムの放水に荒れ狂う堰堤、見上げれば明らかに都市部よりも輝き総数の多い星空。 今日はほんとは天童jazzミーティングがあってそれもかなり行きたかったのだが、今日テントおろしせずにいつするってぐらい絶好のキャンプ日和だったのでこちらを選んだ。 だのでこちらは勝手に唐松ジャズミーティング2005開催ということで、ipodをジャズ縛りにランダム設定。 虫の声と川の音にまぎれてすばらしい選曲が続く。   食後しばらくまったりして、タープがないのですぐにしっかり後かたづけをして、テントへ。 堰堤脇のせいか湿気がすごく、フライの内側まで水滴が。 我がキャンプサイトは決して整備された本当のキャンプサイトではないので当然草ぼうぼうの荒れ地。 歩く足は常に草の露によって水浸しで、こういう時にもウォーターシューズなるものは役立つのかと感心。  テント内に張った紐にランタンを吊し、その優しい光のなかでさあこのために買ったといっても過言でないアンナ・カレーニナを読もうと思ったが、どうも落ち着くにはまだ早いような気がして、ひとり散歩に出かける。 唐松観音にいってみようとおもい、橋を渡り、水子の地蔵の前をとおったあたりで足がすくむ。 日頃から神仏悪鬼魑魅魍魎の類のその存在を心から受け入れ、そういうものを無闇矢鱈と恐れずありのままに丸ごと引き受けようという気持ちで生きておって、現に自分にごまかしが無い状態なら滅多に「怖い」という感情が湧くこともないとおもっていたのだが、しかし、リアルの闇は、そしてそれに乗じてよくわからない神仏の存在があるこの状況は、怖い。 この怖さには理由がない。 なになにがどうなってこうなりそうで怖いとかいうことではなく、なにか、ぼくという生命が、圧倒的ななにかによって戦慄させられている。 絶対的な恐怖。 と、頭の中で言葉にしてしまったらなんだかむかついてきて、理由無く怖いなんてのはそれこそ何かに乗っかった杜撰な心の働きで、結局「怖い」気分に浅い薄っぺらいところで酔ってるだけじゃんか自分、と腹がたってきて、そんならつまるとこなにがそんなに怖いのか確かめるべくギリギリまでいったれという気持ちがでてきて、暗闇を進むにつれ、むしろ想像を絶する恐ろしいことがおこったらそら夢のような話やないかと逆に期待で胸がはち切れそうになり、なんだか恐ろしのドキドキも嬉しのドキドキも実はなんの違いもないそれ自体まるきり同じもんで、楽しむ気持ちの問題として、一拍目から表のリズムとして聞くか、あえて二拍目から聞いたことにして裏で跳ねさせてスウィングを感ずるかというようなことなんじゃないかと思えてきて、どんどんおもしろくなってきてしまった。  思考のおもしろさで恐怖の魅力が端に追いやられ、結局なんの恐怖的刺激もないまま唐松観音のお堂に到着、しばらく居座れば何者か現れるか知れんと粘るもなにも現れる気配はなく、帰り道などまるでピクニック気分である。  そのまま近くの民家を散歩。 夜、他人の家から香るお風呂の匂いってのはどうしてこんなにキュンとくるのか。 皆それぞれの身体洗剤を使っているだろうに、いろいろ混ざって外に出てくる匂いはどの家庭でもいつの時代でも常に同じ匂いになっているような気がする。 それはきっとこの匂いが幸せの象徴みたいな匂いだからであり、幸せというのは、美味しさの正体が実は甘さであるのと同じで、常に似たようなものでできていることの証明でもあるなんて考えて帰ってテントで読んだアンナ・カレーニナの冒頭に

「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこでもその不幸のおもむきが異なっているものである。」

なんて書いてあるもんだから、びっくりしてしまった。 という実にいい一日だった。

2005-08-27-SAT

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