No.1067 強さはいらないのかしらと考える

各政党の本質的たくらみの情報が錯綜してて、どこも恐ろしくみえて仕方がない。 マニフェストなんてのは有力な票田への媚びの平均値、外装でしかないんだろうから、どこも美味そうに見えるからなんの判断材料にもならん(正確には政党の普段に対しての今回の政策、というマクロな見方がちゃんと出来るくらいの人なら、まあそのものそのままというわけでなく何回転もした上での判断材料として機能するんだろうけども)。 利権にまみれた商業メディアテレビから伝わるのは、がんばっても語るその人そのものの人間の印象でしかなく、背後の渦が正しい流れにあるかどうかまではうかがい知れない、そんなこといったら背後の渦が正しい流れにあるかどうかなんてのがそもそも一般庶民に判断つくわけもなく、というか人間にそんなもんがわかるわけもなく、つってそういう視点でいってしまうと元も子もないが、しかし本当に難しいなんて言葉では片づけられない、あまりに多層的すぎて多義的すぎて本来人間には扱うのは無理としかおもえないような正義をやろうとし続ける浪漫(勘違い)が、人が強くあること(強くとは男性的方向性でいうところの強さ)で理想を統治しようってのが政治で、しかしそもそも人間てのは現代に当たり前に存在する男性的強さなんてものを必要とせず、女子供の生き方しかできないものらしいことは集団になったときの傾向から確実に窺い知れることで、目の前にさいしょっからこれだけ矛盾が突きつけられた状態、矛盾というよりか負け戦とわかってるようななんともむなしい気持ちでそれでもより「最悪でない」政党を選ばなければならない業、それでも「政治」をしていかなければならない業ってのは、もう、なんだろうか。 この不毛感、すべてにおよぶ。 芸術にもおよぶじゃないか。 芸術なんてのはべたべたに男性的な性質の象徴だもの。 理性でもって、感性でもって、一番強い(つまり智慧のあるものの判断でもって美しい)状態を求めた究極でしょ。 それこそ「男性的」でしょ(芸術が男のモノ?なんていわんでね。ジェンダー厨が目くじらたてるような意味ではないところのさ、もちろん。最近じゃびっくりするほど男性的リリシズムをもった女性が増えてて、その本来あるべき性質から離れた奇形ぶりがとてもかわいそうだが、しかしそういう奇形はやはり圧倒的に美しい、という病的なものが、そもそもいらんかった、という話)。  ふぐー。 心のよりどころの土台が、これはたまらんと目を背けたいいかんともしがたいカルマと同質であることの皮肉、というか宿命。 真理。 厭世的なんていう一元的な価値観の上にしか成り立たん言葉では説明できんほど、世界との距離がつかめん、わからん、むずかしい。 ←これがそもそもわかりたい、わかってやろうという征服至上主義、「強さ」への盲目的信頼が土台になってる考え方なんだよね…orz

2005-08-29-MON

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