No.1151 ヒトラー

久々の歩き。 やはり夜の、帰り道こそが歩きの醍醐味、気色いい。 今日はふたりで「ヒトラー 最期の12日間」を観に行く約束をしてる。 歩きながら「どうせだから文翔館で待ち合わせしてベンチでご飯でもたべて、そのまま歩いていったらさぞかし楽しいんじゃなかろうか」と思いつき、そのむね電話で提案したところ、ちゃんす快諾。 噴水の近くのベンチでバルーンファイトをしながら待つ。 ほどなくちゃんす登場、ちっと寒いねといいながら、おいしいパンを食べ、余裕をもってフォーラムに出発。 いつも車でしか通らない道を歩くのは新鮮な発見があって楽しい。 ふたりとも、夜の街のもつ、静けさと、賑わいと、冷ややかな空気と、光と、暗さと、行き交う人の楽しげな音、などが織りなす全体的な世界の渦が様子が、とても好き。 どこか旅にいったときの、ホテルからでて散策してるときに似た、ワクワクしてソワソワして腹がきゅんっと下痢っぽくなるようなあの喜びに満たされる。 文翔館から新生フォーラムは気持ちよくちょっと歩くにちょうどいい距離だった。

開演まで、この秋のラインナップやらドキュメンタリー映画祭の情報やらみてすごし、大いにもりあがる。 さようならCOLOR、メゾン・ド・ヒミコ、TAKESHIS、ティムバートン2作、さよならさよならハリウッド、大いなる休暇、ヴェラ・ドレイクなど、面白そうなのがたくさんあるじゃないか(片田舎なので都会の人とはだいぶ時差があるとおもいますが)。  で、ヒトラー。 いままでヒトラーがらみの映画はいろいろあったけれど、ドイツ発信の、ここまで人間ヒトラーに迫ったものってのはなかった。 あの絵のやつは「ヒトラー」以前のヒトラーだし。 細かい事情を知らないと要所要所、???な内容ではあるが(はっきりいってヒトラー以外誰が誰かさっぱりわからん)、なんんつーか、歴史における絶対悪のようになっている、そこにはそこで、理想や愛や誠実さや家族が確かにあって、結局タイミングとか、自分の立ち位置とか、そういう自分の制御できる範囲外での条件で、おなじ現象もまるで違った「現実」になることをまた思い知らされたかんじ。 主役的な秘書の女の子が生き延びてばあさんになって「自分が目をしっかりひらいて生きていればユダヤ人虐殺のことを知らないままぬくぬくと秘書なんてやってなかった、若さのせいにはできない、曇ったまなこに罪があった」的な発言をするが、そんなのは後から振り返って、マクロな視点(これもある種仮想的)で情報を客観的に見た上でいえることであって、そんなもんはその人の言葉では決して無く、ニュースや歴史書のイタコみたいなもんで、生きた、一人の人間が、現実から生で感じ、判断しうる世界像、倫理、真実なんてのは、やはりある程度は(いや、核の部分はそのほとんどが)偶然によってあらかじめ設定された立ち位置のもつバイアスからなかなか抜け出せるわけもなく、なんてなことを考えつつ、ふたり帰り道、戦争などについてはどう語っても不誠実なことになってしまってもはや身動きできんなという思いと、逆に「現実」ってものは「強く素直に自然と己がそう思えること」にほかならんという、マインドゲーム肯定説、無限の可能性を感じる思いとの狭間にゆれる。  や、狭間でもないな。 「強く素直に自然と己がそう思えること」てのがそもそも動かし難い「人格」によって作られる偏りといえるもんな。 わかんねー。 なにもかもあれもこれも善も悪もほんとも嘘もおれもぼくも全部でっちあげだ、ちきしょー。 最近、1+1=2とか、視覚的にも観念的にも完全に納得いっていた数学的「事実」さえ、それがなぜそんなに確定的なのかよくわからなくなってきた。 たしかに確実に毎回同じ結果を導けるし、現実の現象に即して考えても例外なくびたりと一致するし、非のうちどころがないのだが、そもそも「数」の概念が、なぜこんなにも絶対的なこととして自分の、人類の精神の中に先天的に成り立っているんだろうというところから疑い始めたら、もう全部ぐにゃぐにゃ。 なんでぼくがひとりいることが「1」という概念と関係あるんだろう、●が2つで●●でそれを「2」と認識することに疑いを持たないんだろう。 実はそこには「数」とおもってきた絶対的なものはまるで関係ないということだってあるんじゃ?? というようなことをいうとすぐに「めんどくさく考えすぎじゃん」みたいな目をする人がいるが、だれが本気でそんなめんどくさいこと考えるか、こんサルが。 ふざけとるんじゃこっちあ。 どこじゃおまえは?   ど・こ・じゃ・も・ま・え・わ?  と、とても落ち着いた気持ちで、にこやかに、タイプ。   

2005-09-24-SAT

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