No.1167 ドキュメンタリー映画祭

ちゃんすのじいちゃんはなんとか昨日はもちこたえました。 持ちこたえて迎えた今日はなんと、じいちゃんとばあちゃんの結婚記念日! じいちゃんがんばったんだわ。 すごい!  ちゃんすはばあちゃんとふたりで病院にとまったようです。  ぼくは今日は体を休めようとおもい、プールは我慢して一日中ドキュメンタリー映画祭に浸かる。 起きたら9時過ぎだったので、あわてて朝の支度をして、10時からの「海岸地」を観に中央公民館6階へ。 ほんとに混むんだね、この映画祭。 海岸地は、オランダの、しょっちゅう水害にやられ、それが日常化している牧畜と農業の村を7年間撮り続けた、ものすごく美しい映像記録。 とにかく、理屈抜きで、自然が、美しい。 圧倒的。 牧畜の仕事風景や、木を切り倒す風景や、煙突が倒れるシーンや、自然を回復する農業法への取り組みや、近代的なさまざまな開発や、いろいろが、単なる近代化へのアンチテーゼや自然回帰への啓蒙といった紋切り型な一方向の見せ方をするのでなく、もう全部を出来るかぎる美しくみせる、というアホっぷり。 素敵。 牛の死骸すらうっとりするほど美しい。 自転車をとめてあっけにとられてる少年のアホ面さえも美しい。 あんまり美しくて、あんまり静かで、さんまりゆったりしてるもんだから、大層ねむたくなった。

お昼を大木屋で食べ(つけチャーシュー)、3回券を新たに購入。 今日は残りの3本もすべて中央公民館で観ることに決めた。 どれも興味深いタイトルばかりなのだもの。 12:30からは「メランコリア 3つの部屋」。 ロシアの子どもたちを3つの視点で捉えた作品(といっても「3つの部屋」とするほど別の視点というわけではなかったとぼくはおもう)。 すべてに共通するのが、チェチェン紛争の痛み。 ぼくはロシアのこともチェチェン紛争のこともまるでわからないので、いまひとつ主観をもって社会的な色合いで観れなかったというのが正直なところ。 子どもに同情させるようなくさい作りはしていないので、ただただ壮絶な境遇の子供達のその年齢に似合わない大人びたまなざしに驚いた。というか憧れた。 厳しい境遇に生きる人の顔というのは、いろんなこと抜きにして、ただもうめちゃくちゃ美しい。 当たり前のようにこんな余裕のある生活(標準的な北の人間の生活水準)をしている以上、一生ぼくの顔はだらしなくきたならしくゆるみっぱなしなんだろうな。 いくら凛としたふりをしてみても、にじみ出る甘さや狡さやダサさは絶対に隠せない。 かといって生きるか死ぬかの壮絶な環境に放り投げられるのはイヤだ、家族をみんな殺されたりするのもイヤだ、手足を失うのもイヤだ、あのこらだって、望んでそんな境遇にいるわけでない。 こういうことについては結局どうありたいのかどうあればいいのかがわからんくなる。 人間として、喜ぶべき環境でないところに生きる人がどうして美しい顔をしているのかしら? 世界において「美しさ」のもつ意味次第では、えらいこっちゃ。 えらいこっちゃ。

3本目は「ジャスティス」。 リオ・デ・ジャネイロの刑務所の話。 監督いわく、容疑者も、判事も、検察も、弁護士も、すべて同じ視点で撮ったという。 これもいまひとつ社会的な感じでは見れなかった。 どうしたぼくは? 最初からそういうものとして構えてみることになると、逆に変な耐性がついてしまって妙にニュートラルに見えてしまうということかしら。 なんだかわからんが。  それぞれの人が、それぞれの立場で、普通の人間として、愛と、エゴをもっていきてるんだという論調ももう飽きちゃった感があって、はい、それはもういやんなるほど食べたし、てか毎日食べてるしちゃんと消化してますうんこもだしますという感じで、もはや登場人物それぞれのもつ特徴などにしか興味がいかなかった、が、まあそれでいいんだろうさ。 ぼくは主人公的な容疑者の、そのお母さんが変にヒステリック(裏ヒス)で愛情にムラがあって、その色合いがとても嫌だなーとおもって観ていたんだけど、びっくりしたことに監督はそのお母さんがすばらしい人だと思って、そういう目で撮とっていたらしく、ならなぜあんなに嫌な感じに映ってしまったんだろうかと、本当に不思議だった。 「観てわかるとおり、本当にすばらしい人で…」みたいな言い方を質疑応答の中で話していたので、間違いなく素晴らしい人を素晴らしい人として撮っていたはずなのだ。 ぼくの見方がおかしかったとも考えづらいのだ。 深い謎だ。

1階の無印でお菓子と飲み物をかって、休憩。 ラストは「リハーサル」というスウェーデンの作品。 これが一番観たかった。 ヨーロッパでめちゃくちゃ有名な実力派劇作家のじいさんが、本物の囚人3人と役者ひとりと一緒になって舞台を作り上げていく、そのリハーサルの様子を記録したものなんだけど、その舞台そのものが、「緻密なディベートを重ねながら、みんなで脚本を練り、舞台をつくるリハーサル風景」を扱った内容で、そのリハーサル風景をより生々しく演出するべく、役者役の役者は囚人に怯えながらリハーサルをするというような演出も、実際にリハーサルで、ほんとに怯えながら、怯えた演技をするという演技指導のもとにおこなわれ、ディベートをどのような見せ方でみせようかというディベートが日々全員くたくたになるまで続けられ、と、あえて混乱するようなかき方をしたのだが、つまり、このように、観ていてなにがなんだかわからなくなるほど複雑でトリッキーな、「メタinメタinメタ」構造になっているのだ。 なぜメタ三つかといったら、最後のメタは、それをドキュメンタリーとしてとってるカメラの目線、つまり最終的な「現実」のラインすらわざとあやうくぼんやりさせて、もっと層があるようにみせるようないやらしい場面を随所にちりばめるもんだから、もう観てるこっちは「どこにいていいのか」が最後まで落ち着かないのだ。 それがめちゃめちゃきもちいい! そしてそのきもちよさの最大の要因となっているのが、囚人のふたり(もうひとりはあまり冴えない)の強烈な頭の良さ。 そのメタ構造の効果を完全に理解した上で、おのれの立場を主観客観の狭間で魅力的にうごきながら、監督と同じレベルで作品づくりに参加し得ているのだ。 ネオナチの思想をもったふたりで、それを否定的にとらえる(本人は否定するが)監督とはげしくぶつかる。 その議論も何階層目のメタなのかつかめない。 演技なのか、演技の演技なのか、演技の演技のための議論なのか、ドキュメンタリー用の演出なのか? すさまじい混乱の波にゆられながら、リアルな、徹底的な正直な刃物に斬りつけられ、しかし気づくと血はでていない、とおもって安心してたら刺し傷だらけでぼく死んだ、みたいな映画。 そんで衝撃のラスト。 これは作家の意図外のことで、作品の正当な評価を壊すアクシデント。 これによって強烈におもしろいものを観たような気がしてしまう人もでてくるだろうし、これによって嫌悪を植え付けられる人もでる。 しかしこのアクシデント抜きでも、この作品は相当おもしろいものだったとぼくはおもう。 あんなオチなどなくても、観ている間、興奮しっぱなしだったもの。  ばかな学生が調子に乗って、「こんな悲しい結果になってしまい、作家というものがなんなのかわからなくなってしまった。 見応えはあったけど、おれはあなたを尊敬できない」などという一元的かつ低俗な自己主張の隠しきれない意見を質疑応答で吐いていたが、監督は淡々と自分のはたした責任についてのみ答え、「尊敬できないというあなたの言葉の意味はよくわからないが…」と相手にしていなかったのが心地よかった。 おまえは観客であって、主人公ではない、自分のなかの世界像と、世界の中の自分という現実を混同するな、どしてもしたいのならもっともっと魅力的な、ビューティフルな見せ方を考えついてからにしろ。

向かいのモスで軽く食べ、家に帰り、ミミとふたりでのんびりした。 疲れた。

2005-10-10-MON

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