No.1182 エゴマンチック

山をこした感じがわかる。 明日あたりにはウィルスもほとんど死滅して、サプレッサーT細胞ができて、「もういいよ」とみんなに教えてくれそう。 ぼくはこの「もういいよ」の声とともに体がどんどん楽になっていくあの期間がとても好き。 今回の戦争でなくなった多くの兵士のみなさん、そのご家族、ほんとうにこの度は母体であるぼくのためにどうもありがとうございました。 なるべく健康に留意し、今以上に体力をつけるべく、いろいろ努力しはじめていますので、これからもどうかよろしくお願いします。 というようなことを考えるとき、ほんと、どこまでが「自分」なんだろうかとかんがえちゃうね。 これを「考えている」という現象中にも、多くの、物理的に独立した「細胞」が関与しているわけで、彼らを他人とうけとるとすると、「わたくし」という概念がいきなり「社会」的なものになってしまってびっくりする。 ひっくるめてのわたくし。 なら、今はいた「痰」は? 飲み込めば「わたくし」、はき出せば「外環境」。 わたくしをひっくるめた「会社」。 わたくしをひっくるめた「家族」。 わたくしをひっくるめた「会社」や「家族」をひっくるめた「地球社会」。 わたくしを物理的にわたくしたらしめている外側の臨界面「皮膚」なんてのは、「県境」程度の、便宜的な、大して意味のないものなのだろう。  飛躍するが、そうしてエヴァンゲリオンの人類補完計画的な「ひとつ」論に向かう思考遊びをはじめると、弱者をまもるという人間の倫理は、そもそも生命の理からしたらとてもはずれたことなんだなと感じる。 全体をひとつと見なした場合、その役割としてうまく機能しないものは世界の外側、つまり「死」という外の世界に排除するのが生命のルールなのに、人は傷ついた弱者や、先天的に弱く生まれた物に同情的で、そこに美意識をもっている。 下等な生物(つまり生命の理に純粋な生物)ほど、そのようなイレギュラーはなくなっていくはずだ。 そして弱者をまもるべきというその倫理観の原動力になるものは、これも飛躍するが、突き詰めると人間特有の異質なまでに発達した「個」という幻想に他ならん。 入れ子状になった幾重の「個」のなかで、全体での効率を無視してもとある一階層の「個」の存続を希望するエゴ、というのは、強烈にロマンティックな人間的「観念」でしかないとおもうのだ(人間的観念というのも本末転倒だが…)。 無駄なところになんとか正当性を見出そうとして高等生物が生み出した「幻想」であろう広義での「アート」、そこから派生するあらゆる人間的「観念」、あらゆる観念の真ん中にいつもひそむ「エゴ」。 己可愛しエゴってのは、ドライな(←これまた人間的感傷が基準になったすごくバイアスがかった発言)「生物の理」からみていくと、究極的にロマンチックなものなのだなと感じた。 ビバ!エゴマンチック! 人間きゃわいい! 人間特異! 人間無駄! 人間死滅!→美! そして美場!

2005-10-25-TUE

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