No.1269 春うらら

日常らしい日常。 普通の生活は、とても、楽だ。 ほっとしてのんびりする半面、こんなんでいいんかい?ともおもう。 こんなぬるま湯に浸かって、ちんたらちんたら過ごして、男子の人生はそれでいいんか?という、早々と隠遁生活を夢見ていたぼくからは間違ってもでてこないであろうとおもわれる感覚が、まずいことにでてきた。  この暮らしに、死の危険は、無い。  ライオンに襲われる危険の無いシマウマは、なんの生き甲斐もなく、ゆえに、死骸と同じだ。 その脚力は、競馬なぞで人間を喜ばせるためのものではないだろ。 常に死と隣り合わせのものが、「生きるため」に使う、純粋にそれだけのための筋肉だろう。 歩いて、草を食べるだけならば、あのような発達した腿はいらない。 サバンナの草食動物の脚力とは、そういうコトだろう、とおもう。  さて、苦しみとか、楽しみとか、わたくしとか、他人とか、単純にわけちゃいかんとぼくは何度も何度もいろんな場面で思い知り、その考えかた感じかたこそが唯一真実だとおもえる。 大乗仏教の「空」の概念は、とてもこの感覚に近いらしく、ぼくはひとりで思い悩まず、まずは仏教をきちんと勉強するべきなんじゃないかしらんと最近気付く。 それはさておき、インパラが己の足のみをたよりに、トリッキーなターンなぞをまじえ、餓えたライオンから必死で逃げているその時ほど、「生」の充実を強烈に、鮮明に、純粋に感じているときはないという何某の意見は、どうかんがえても正しいとおもう。 幸せとか不幸せ、喰うあいつ、喰われるわたし、なんつー関係を超えた、圧倒的な己の実在感。 いや、己のなんて閉じちゃいけん。とにかく感じる壮大で爆裂的なパワー、感動、エネルギー。  これじゃないのか、必要なのは???  常に、自分が一番死にそうなところに立つ。 がんばれば死なぬが、怠けたら死ぬ、そういうところに居ることこそが、生きるということなんじゃないかしら。 うへ〜、しんどいな〜、と、自分でかいていても思うが、しかし、そのしんどいところにしか、自分が本当に求めるエネルギーはないのだからしかたがない。 世の中がそういう風にできていることに、気づけたのだから、ラッキーだ。 そうと知らずにただただ目の前の安楽をむさぼり、日々空虚のなかでただひたすらルーチンワークをこなし、冒険さえも実は勝算のあるものにしか手を出さず、内面ではそれを恥じているような生活は、やばいでしょ? なんかわからんが、「やる」ために出てきたのだから、やらんと。

というような危機感がうまれるほど、うららかな春の日。 夜はのんびりちゃんすとふたり、植木市にくりだした。 てきとうに祭りエリアを一周し、家にもどり、夕食は昨日の大フランス展で仕入れたチーズやらオイルサーディンやら鴨のテリーヌやらトマトのオイル漬けといったあらゆる禁忌食材を、山のように持ったフランスパンのトーストに様々な組み合わせで塗り、盛り、久々のワイン祭り。 ん〜、いい生活じゃないか、殺される危険のない生活てのは。

2006-05-08-MON

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