No.1303 これは

主任職にくっついてきた余計な仕事やら、水泳やら、読書やら、秘密の動きやら、余計じゃない核の部分の仕事をこれまでよりも真剣に取り組みたい気持ちやらがかさなり、とても日記を書く時間がとれず、無理矢理かいてもどうしても中途半端なあせった文面になってしまい、これでは言語感覚の鍛錬という純粋な目的が濁ってしまい、単なるうっとおしいルーチンワークになりさがってしまうと考え、おもいきって書くのをやめようとおもってここしばらく書いていなかったのだけど、今日仕事の合間に昔の雑誌の金井美恵子のインタビューにみいってしまい、その尋常でない言語感覚と、そのぬきんでた己の能力への自負、翻弄されるインタビュアー(それだってそうとう切れ者らしく、ぼくなんかどうがんばってもそんな鋭い返しをできないような頭の良さと知識をもった人だというのに、金井にかかっては馬鹿な子供なのだもの)などを真面目に受け止めている内に、世界レベルで見たときの、自分のなんでもなさ、馬鹿さ、小ささに、愕然としてしまった。 強烈な危機感を感じて、存在をグラグラに揺さぶられるような気持ちになってしまった。

ぼくは、この30年間、なにをしてきたんだろうか? 世の中、下をみればきりがないく、日常うっかり調子にのってしまいがちだけども、みるべきは上のきりのなさであって、そうしたときに感じる自分の無知、あらゆる能力・美意識の極端な低劣さ、甘さ、問題意識・目的意識の欠落に、心底うんざりしてしまう。 このままではたとえ自分が楽しいとおもって生きていても、実質的にはくだらないとるにたらない有象無象の無価値な魅力ないうんこちゃんのまま人生を終えてしまう。 都合の悪いことには目を瞑って、目の前の肯定材料だけ積み重ねて気持ちのいい幻想をみて生きていくことが幸せだとはどうしてもぼくは考えられない。 結局、資質のレベルに見合わない理想をもってしまっているためにこうして悩まされるわけだけども、「資質のレベルに見合わない」とかいってる時点で自分を安易に限定して逃げにはいっているわけで、こうした良くない癖は、そろそろ本格的になくしていかないと、とりかえしのつかない糞人間、馬鹿、キチガイ、××××になってしまうと感じ、とにかく、まず、これまで以上に、良い本に巡り会って、良い読書の時間を作って、できる限り言語感覚を磨いていこうと思ったのです。 同時に、それを運用する力、形におとす力を磨くには、やはり常に強制的に文章を書いている必要があるとも感じ、日記はどんな形にしろやめることはせずに続けるべきだとおもったのです。 人間の人間らしさ、その価値は、とにかく言語感覚につきます。 なんだそりゃと思われるかもしれんけど、ここでいっている言語感覚というのは「言葉」の運用という表面的・直接的なことにおわるところのものではなく、もっとプリミティブなところのものです。 人間が意識の上で(あるいは無意識下でも)「思考する」ということはすべて、そのもの言語による意識の創出、運用です。 キラーパスを出す能力、美食倶楽部の優れた味覚、中国4千年の性技、一見languageとは無関係そうなあらゆる人間活動も、その源は、そのエンジンは、言語的な外界の解釈を経た神経伝達、その結果生じる物理現象、そしてまたその物理現象を知覚して、フィードバックして、すごいパスだ! すごい味覚だ! すごいテクだ(ぴゅぴゅっ)! と感じるのも言語的なものに他ならんのです。

本を読まない人は馬鹿になる、というのは就中、最近強く、リアルに感じること。 もちろんテレビドラマと同レベルの推理小説をいくら読んでいてもしょうがない(ああいうものはコロコロコミックとほとんどなにも変わらない)。 ぬきんでたとんでもない才能(基本的には「文学」にふれているべきで、しかし完全なる目的意識をもった「エンターテインメント」も無視できないとも思う。純文学と大衆文学は、昔ほどそのディスクールにおいて明確に分けれないような感じになってきてる気がする。純文学的な態度で挑みながらも通俗の域をぬけられないものもいれば、エンターテインメントであることがものすごく清廉なアートたり得ている俗というものもあるのだから、本質を、真贋を見抜く目というのはものすごく大切なものであって、しかしそれは体系化して説明できるようなものではなくて、一見してものすごく個人的で閉じた尺度のようなものになりつつあると感じる。 それでもやはり【一本とおった世の中の価値基準】というものが奥の方に堂々と間違いなくいつの時代も横たわっていて、それに準じることは決してステレオタイプというんじゃなく、大宇宙の規律というようなレベルの話だと直感的にぼくも花谷くんも知っている、という気分が多くの人に存在してぶれなく共有できているということが何よりの証明、というような括弧がきでようやく在る程度誤解なく伝わるかしら→ぬきんでたとんでもない才能)にふれてなくちゃ、日々の雑多に追われて状況をこなしていくだけでは、やはりほんとに馬鹿になる。 なにか社会的にうまく立ち回り、口八丁手八丁で賢くやれているつもりでも、それは馬鹿の中でしか通用しない馬鹿のヒーローでしかなく、ちょっとだけそこより広い見識、柔軟な感性からその様子を眺めたら、それはほんとに涙がでてしまうほど空虚で悲しくてちんぽこりんなものなのだ。 また世間一般には、馬鹿だけがもつあたたかさのようなものがあるようにおもわれがちだが、それはとんでもない誤解、都合のいい幻想、大衆錯覚で、馬鹿が本当のあたたかさや優しさ、自由や、平和を分かることは決してない。 作為的なプロパガンダのいちばんうわずみの部分を子供的な感覚で引用してそれが真実だったり自分の感情であったりと錯覚しているだけなのだ。 その証拠に、田舎的なあたたかさというのは、だれもが感じるようにその陰にとんでもない残酷性と、通俗の下劣さ、キチガイじみた矛盾をもっていて、それらはつまり「無知」ということそのものだ。 最近、仏教でいう「煩悩」のひとつに「無知」があることを知り、ちゃんすとふたりでショックを受けた。 ぼくとしては「無知」とは「知」のない、「ない」という状態のことでしかなかったところに、それが「煩悩」というひとつの余計ものの「欲」のような実体であるという感覚をはじめて適用して、その新鮮さと正しい感じに、うわっ、と感じたのだ。 「無知」とは、「怒り」や「ねたみ」と同質の、ひとつの形在る「煩悩」なんだと考えると、例えば「素朴」という言葉の持つ、いい意味の方のニュアンスでごまかせていた、単純であることの隠された罪、知らずに垂れ流す迷惑、ウラの顔、だらしなさ、いやったらしさ、ずるさ、逃げの姿勢、醜さが際だってきて、おちおち私はなにも知りません、ラブアンドピースなんていってはいられなくなるはずである。 無知が静かに存在しているだけで、そこからは黒くて臭くていじけた煙みたいなものがどんどん湧いてきていて、その煙みたいなものが充満することで、世の中が毒されていく。 実はオゾン層を破壊するのも、おかしな感染症が流行するのも、CO2の過剰排出や変異体細菌といった直接的な原因が問題なんじゃなくて、その黒い無意識の煙が大気に沈殿して積もっていっていることがいちばん深刻なんだと思う。 まともな【知】というのも乱暴だが、そういうものを得ていくことで、人がなにに行き着くのかといえば、「やあん、すてきなけしきー」と、ポーズでいってさほど心が動いていない(本人はそれにも気づけない)という異常さが消えてなくなっていって、そこに本来あるべきエモーションを、ただ当たり前に感じることができるようになる、という、それだけのことなんだろうなと思うのです。

つーことで、なんの説明かといったら、朝、こっ早く会社にきて、就業前に日記を書くことにしました。という話です。 そうすると、仕事前に頭がすごく冴えてくるすばらしい加速にもなり、もともと朝は集中しやすいこともあり、状況(集中しやすい朝)と、行為(文章創作による脳の加速)が、それぞれを引き立てあうという理想的相乗効果を得られ、万事、ピカピカなのであります。 しかし状況と行為の相乗効果というのはすごいね。 行為が無ければ状況の価値は無価値・ゼロだし、状況が無ければ行為が行われないわけで、ゼロ、ところが状況があって行為を為すことで、ゼロが、8億ぐらいになる。 2日8億が続けばそれはべき乗増幅するから800000000*800000000=640000000000000000、6京4千兆の価値が蓄積されるのに、寝汗をかき、おならをたれながらダラダラ寝過ごし、以前のようにギリギリまで目覚ましテレビをみていたのでは、目覚ましテレビをみるのだからゼロではないにしてもせいぜい5004ぐらいの価値しか蓄積されない。 これは。

2006-06-19-MON

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